夜になるまえに

本の話をするところ。

ちいさな幸せを「まぬけなこよみ」

 

 エッセイが好きだ。しかし、好きな小説よりも、好きなエッセイを見つける方が難しい、と思うくらいには、好みに偏りがある。文章はもちろん、時には小説よりもよほど強く感じとれる、書き手の価値観、のようなものが肝心なのだと思う。好きな感じのエッセイを書く人であっても、いつもいつもいいなあ、と思うのではなく、ある一編のある一節がどうにも気持ち悪く思われて本ごと手放してしまう、というようなこともある。「こういうことを肯定的に書いちゃうんだ」「これをアリだと思ってるんならちょっとな…」というちいさながっかりが、エッセイについては何の遠慮もなく剥き出しになり、すぐに「嫌」につながってしまう。もちろん「嫌」なものなど読みたくないので、自然と「この人なら大丈夫」という人のエッセイばかりを読む、ということになる。
 津村記久子は私にとって「この人なら大丈夫」という書き手だ。書かれているのが小説であっても、エッセイであっても。
 等身大、という言葉がある。共感を呼ぶ、という言葉がある。津村記久子の小説はまちがいなく、等身大の人間を書いて共感を呼ぶ。ちょっと探せば隣りの隣りくらいにいそうな、体温のある人間がそこにはいて、時にはあまりにもちいさな幸せを嚙みしめていたりして、津村記久子の小説のそういうところを、私は好きにならずにはいられない。小説は、そうだ。ではエッセイはどうか。
 エッセイで描かれる津村記久子は、等身大ではあっても、共感は呼ばない、と私は思う。たとえば私はいつも同じ相手と初詣に行ったりしないし、かるたが好きでもない。十日戎に思い入れもない(そもそもそういうものがあることも知らなかった)。しかしそれらについて話す津村記久子の言葉を、私はふんふんとうなずきながら聞いている。いや、実際には書かれた文字を読んでいるわけだが、知っている人のなんてことない日常のあれこれを相槌を打ちながら聞いているような、そんな気持ちに、津村記久子のエッセイを読んでいると、私はなる。読んでいて「あーわかる」と思うことは、ちょっとびっくりするくらいに少ないのだが、「何それ全然わからない」と思うこともない。人がひとりひとり違うのはあたりまえのことで、そのあたりまえに違っているひとりが私である、という、それこそあたりまえのことを、読んでいると再確認することができる。言い表せばそういうことになるだろうか。もちろん普段はそんなことは考えもせずに、私は津村記久子のエッセイを楽しく読んでいる。なんてことはないが二度と繰り返すことのできない日常の会話がかけがえのないものであるように、誰かのエッセイを楽しく読めるというちいさな幸せを嚙みしめながら。

 

津村記久子作品は過去に小説の感想も書いている。

 

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