夜になるまえに

本の話をするところ。

「会話を哲学する コミュニケーションとマニピュレーション」を片手に「マトリックス」を観てみる

 あなたは中村明日美子先生の漫画「同級生」がお好きだろうか。あるいは「鋼の錬金術師」が。あるいは「オリエント急行の殺人」が。
 たぶんこれらの作品を読んだことのある人であれば覚えているであろう印象的な会話がこの本には取り上げられている。それも、その会話において起こっているのが一体どういうことであるのかを、詳らかにするというかたちで。
 読んでいていくつもの「なるほど」を引き出すその分析のひとつひとつを紹介する、なんてことはここではしない。かわりに、この本を入口として考えたことをここに記しておきたいと思う。
 映画「マトリックス」(1999年)には、主人公ネオを執拗に追う敵、エージェント・スミスがネオを追い詰めるシーンがある。そこでスミスは仮想現実であるマトリックス内のネオの名前である「トーマス・アンダーソン」を使って「Goodbye, Mr.Anderson(さらばだ アンダーソン君)」と言う。これに対してネオは「My name is Neo(俺の名前はネオだ)」と返し反撃に転じる。
 更にシリーズ第四作「マトリックス レザレクションズ」にはそれに対応したシーンがある。トリニティーマトリックス内で呼ばれていた「ティファニー」という名前で呼ばれ、「My name is Trinity(私の名はトリニティー)」と返して戦いはじめるシーンだ。
 本書で著者が言うように「コミュニケーションは発言を通じて話し手と聞き手のあいだで約束事を構築していくような営み(p.4)」であるならば、名前を呼ばれそれに応えることは、最も短いコミュニケーションの形ではないだろうか。Aが「○○」とBを呼んでBがそれに「はい」と答えた時、「Bは自分が○○と呼ばれることを了解している」という約束事が形成される。しかし場合によって、このコミュニケーションは著者の言うマニピュレーション――「発言を通じて話し手が聞き手の心理や行動を操ろうとする営み」(p.4)の機能を持つ。人は時として自分の望まない名前で呼ばれ、自分の望まないレッテルを貼られることがある。上に挙げた「マトリックス」「マトリックス レザレクションズ」の例では、名前を呼ぶ側は、呼ばれた側が「トーマス・アンダーソン」/「ティファニー」と呼ばれることを受け入れることを強制/期待している。そしていずれの例においても、名前を呼ばれた側は「私は自分が『トーマス・アンダーソン』/『ティファニー』と呼ばれることを了解している」という約束事が形成されることを、自らの真の名前を名乗ることによって拒否する。どちらのシーンも戦闘シーンに繋がるのは必然であると言えるかもしれない。マニピュレーションへの抵抗はすなわち戦いであるからだ。
 私はここで挙げた二本の映画を、本書を読む前に既に観ていた。しかしこのような解釈が可能になったのは、本書を読んだおかげである。そしてこれはきっと私に限った話ではないし、この二本の映画に限った話でもない。あなたが好きな映画、漫画、小説、その他のフィクションに登場する会話、あるいは実際に経験した会話を分析することを、本書は可能にする。本書は入口であり、作品の豊かな解釈や、もしかしたらマニピュレーションから自分を守る術へと、あなたを導いてくれる。

 

同著者の「言葉の展望台」レビューはこちら↓

 

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