夜になるまえに

本の話をするところ。

「泣ける本」ではなく。「体の贈り物」


 何をどう語ればこの本の美しさを伝えることができるのだろう? 「泣ける」という言葉では到底それは伝わらない。たとえば「汗の贈り物」を、「言葉の贈り物」「悼みの贈り物」を読んで泣いてしまうことは、この本を「泣ける本」のカテゴリーに入れるに十分な資格を与えるものかもしれない。しかしこの本はそれ以上の一冊なのである。この本に出てくるのは、いずれ死んでしまうとわかっている人々と、彼らに寄り添う人々だ。そう遠くないいつか、別れが来ることをどちらもわかっている。それを受け入れられる者もいれば、受け入れられない者もいる。苛立つ人がいる。抗おうとする人がいる。当たり前のことかもしれないが、死にゆく人々は皆、その時が来るまで生きている。彼らは、たとえば満足に動かせない体で声を振り絞りたった一言を伝えようとする。自分の人生を顧みて幸運だったと言う。体を洗ってもらい肌に感じる空気を喜ぶ。経験を積んだ語り手の「私」も時に世話をしている人々に振り回され、打ちのめされ、疲弊する。それでも死にゆく人々を見守るほかはない。それしか彼女にできることはないのだから。そのささやかな営みをレベッカ・ブラウンは切り取る。劇的なストーリーはない。ドラマはない。涙もない。自然に流れ出るほかは。そしてその涙は、病気で誰かが死んでしまった、だから悲しいというたぐいのものではないのだ。「汗の贈り物」のシナモンロールで涙が出るのは、病に侵されて不自由になってしまった身体を抱えた人がそれを買いに行ってくれたからだ。「言葉の贈り物」で涙が出るのは、満足に話すこともできなくなったその人が、必死に振り絞ったのがその一言だったからだ。悲しいのではない。その涙はどこか温かい。どこか幸せと似ている。生きるということそれ自体に似ている。だから私はレベッカ・ブラウンの本を読み続ける。

 

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